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塩づくりを通じて、島の地域経済・循環に恩返ししたい

【連載】「ないものはない」という生き方 vol.02

杵築祥子

2026.02.28

Interview

「ないものはない」を掲げた島根の離島・海士町。人口約2000人という小さな島ながら、ここには「ないならつくればいい」という、このキャッチコピーを体現したかのような個性豊かな人々がたくさん暮らしています。この連載では、そんな自分だけの暮らし、あるいは仕事をみずからつくり、暮らしている人々を随時ご紹介。今回登場するのは、和食を学ぶ「島食の寺子屋」の一期生として2017年に海士町へ移住し、現在は海士町の重要な産業でもある塩づくりに向き合う、杵築(きづき)祥子さんです。

東京の不動産業界から出て、島で料理を学ぶまで

ーーはじめに、杵築さんが島に来るまでのことを教えてください。

新卒で東京の不動産会社に就職したのですが、不動産業界を選んだ背景には小学生の頃の原体験がありました。私は鎌倉市の出身で、誰に聞いても「良いところだよね」と言われるのですが、実際には観光シーズンのバランスや土地代高騰などの課題があり、商店街のお店の入れ替わりがすごく早いということを感じていました。私自身は子どもの頃から商店街の人たちにあたたかく迎えてもらって、勝手にお家に上がらせてもらったり、お肉屋さんでハムをもらったりしていたので、そんなふうにシャッター街化していくところに歯痒さを感じていたんです。そういう経験があったので、大学では文化人類学のゼミで「商店街のシャッター街化」をテーマにしましたし、空き家の循環に興味を持って不動産業界を選びました。

ーーそこから、なぜ島へ移住することになったのでしょうか?

東京にいると、どうしても業界規模が大きく、地域の活性化よりも経済性が優先されてしまいます。そういう働き方に疑問を感じていたことと、会社では法人営業から新規事業、人事、システムまで、いろんなことを経験させてもらってやりきったという感覚もあって。衣食住の「住」をやってきたので、次は「食」に携わりたいなと思っていたときに、「島食の寺子屋」の一期生募集の記事に出会ったんです。

ーー海士町のことは当時ご存知でしたか?

いえ、私も、まわりに聞いても、隠岐や海士町については何も知らない状況でした。でも、前職の有休消化期間中にはじめて訪れてみると、その時にはもう自分が住んでいるイメージが湧いたんです。「島食の寺子屋」のカリキュラムは4月でしたが、11月中旬には移住を決めて、住み始めていました。というのも、当時ちょうど「大人の島留学」や「海士町複業協同組合」の前進となるマルチワーカー制度というものができたばかりで、時期に応じて忙しい現場で働かせてもらえることになって。一次生産の現場に興味があったので、岩がきや隠岐牛、CAS凍結センターなど、1カ月ごとにいろいろな現場で働けたことがすごく良い経験になりました。

ーー最初はカリキュラムがきっかけだったとは思いますが、海士町に住むことを決めた理由はどこにありましたか?

「島食の寺子屋」の生徒として崎という地区のシェアハウスに住んだのですが、坂が多くて海が見えるこの景色や人の距離感、ひらかれた雰囲気が、小学4年生の頃に自分が住んでいた逗子市の景色とすごく似ていたんです。でも、じつは当時「島食の寺子屋」のカリキュラムを終えたら、徳島に移住したいなと考えていて。本格的に履歴書まで準備していたのですが、うっかり島で出会った方と結婚して(笑)、子どもが生まれて、そのまま今に至ります。

自然、地域と深く結びついた料理の可能性を学ぶ

ーー「島食の寺子屋」でのカリキュラムについても、ぜひ詳しく教えてください。

初日から山に入って花山椒やフクギの花を採ってきたり、その日に採ってきた食材をどう調理しようか、と考えるような授業だったので、それがほんとうに楽しくて。見るもの聞くものすべてが新鮮で、移住した1年目が島を一番満喫できました。定置網の漁船が漁港に戻ってきたよという連絡が朝入ったらすぐに現地へ行って魚を仕入れて、そのまま寺子屋で捌いて、その日は3時に解散、みたいな。

ーー自然と向き合うことそのものが授業になっているのですね。

とくに日本料理は季節の移り変わりを大切にするので、自然と向き合いながら、その自然をどうすればお皿の上で表現できるのか、そのためにはどんな技術が必要か、ということを教えていただきました。一般的なレストランだとメニューも毎日変わるわけではないので、どうしても形のそろった食材をまとめて仕入れるというのが一般的ですが、ここでは全く違うアプローチを学ぶ機会になりました。

ーーもともと、料理への関心は強かったのでしょうか?

料理も食べ歩きも大好きでしたが、私のなかではアートというか、強烈な個性がないとできないものだと思って、諦めていたんですよね。だから、新卒の就職先としても選ばなかった。不動産を辞めた後も料理学校に通うイメージはつかなかったのですが、「島食の寺子屋」はもっと生産の現場に近くて、地域のために働けるという点でも私にぴったりだったんだと思います。

ーー「島食の寺子屋」での研修を終えたあとは、どのようなお仕事を?

12月にカリキュラムを終えて、冬の間は島外の日本料理店で働かせていただき、4月からは島内の隠岐神社の境内の中にある「離島キッチン海士」という料理店を運営している事業所に就職しました。当時の先生が料理監修をしていたのですが、マリンポートホテル海士(現・Entô)の総料理長も兼任されていて、そちらにも入らせていただくようになりました。その後、妊娠出産を経て復帰をする際に、株式会社海士が運営を引き継いだ、港にある「船渡来流亭」というレストランの店長をしてもらえないかというご相談をいただき、そのタイミングで株式会社海士に転籍をしました。

ーー島ではずっと食に関わり続けたいと考えていましたか?

学校にいた頃から、ずっと「私は生涯の仕事として何がやりたいのか」を考えているなかで、料理人というよりは、地域経済の循環に貢献できるような働き方がしたいと思ったんです。2300人しかいない島で、「船渡来流亭」には8月だけでも3000人くらいのお客様がいらっしゃいます。島にとっての経済効果も大きくて、地域の生産者の方からたくさんの食材を仕入れることができる。そんな背景もあって「船渡来流亭」での仕事を選びましたし、島のものを楽しんでいただける場所として、同じく港にある「島じゃ常識商店」にも関わるようになりました。

塩づくりを通じて、いかに島に貢献できるか

ーー現在担当をされている、塩づくりについてもお話を聞かせていただけますか?

塩づくりは海士町において重要な産業でもあるのですが、当時塩づくりを担当していた会社が事業から撤退するという話を聞いて、株式会社海士として事業を引き継がせていただけないか、とご相談に伺いました。そうして、2025年から事業を承継し、担当させていただくことになったんです。

ーー海士町における塩づくりの魅力はどこにありますか?

ただ調味料をつくっているのではなくて、島の経済循環や環境のことを考えられる場だと思っています。たとえば、塩を焚くために薪を使いますが、海士町には製材所がないので、島内の木を一度島後(隠岐の島町)に運んで、また買い戻す場合もあります。でも、それだとコストがかかってしまうので、森林組合から間伐材を直接購入することで海士町としての経済循環にもつながるはずだと思い、そのような判断をしています。それ以外にも、この場所が学びの場となって幅広い世代が関わる場所になるなど、社会に対してより良い影響を与えられる方法がないかということをずっと考えています。

ーー塩づくり自体はどのような流れなのでしょうか?

夏は暑すぎて塩が焚けないので、塩焚きの中心は10月から5月あたりになります。ただ、冬は日照時間が短いので、天日干しが思うようにはできません。だから、冬のあいだには塩焚きの回数を増やして、置いておくんです。1回の塩焚きでは大体200〜300kgの薪を使って、8時間焚き続けます。そうしてできあがるのが、にがりなども含めておよそ60〜70kg。そこから検品をするのですが、現在のやり方では人手と時間がかかりすぎているので、どうにかシステム化できないかを模索しているところです。製造工程自体は、当時「塩宴会」という夜通し塩づくりをしながらお酒を酌み交わしていたみなさんの集まりがつくったやり方をそのまま承継しています。石油燃料は使わず、機械化もしないなかで、どうやって量産し、販路を増やしていけるかが、今後の課題となりそうです。

ーーこれからさらに挑戦してみたいことはありますか?

(その土地ならではの食の魅力を探求する)ジオガストロノミーという世界観をつくりたいと考えています。塩をきっかけに、海士や隠岐を知ってもらいたいなと。たとえば、旅行で来た方々と一緒に薪を集めて、塩を焚き、塩むすびにして食べるなど、そういう地域を味わえるようなブランドにしていきたいんです。ゆくゆくは塩を通じて地域で働くことに興味を持ってもらえたり、島に関わり応援してくださる関係人口を増やしていくことにもつながれば良いなと思います。

島ならではの子育てで得られたもの

ーー子育てのお話もありましたが、島での子育てはいかがでしたか?

子どもたちが保育園に入るタイミングで、並行して店長業務を始めた時期は、ほんとうにしんどくて。今思い出しても戻りたくないくらい大変でした。それでも乗り越えられたのは、近所の方々や家族の存在があったからだと思います。近所のみなさんが子どもの名前も覚えてくれて、いつも気にかけてくれて。それがありがたいし、心の支えになりました。お裾分け文化もこの島の大きな特徴だと思うのですが、そういう距離感やいい意味でのおせっかいが私は大好きで。島の方々に、私自身も、娘たちも育てていただいているなと感じます。だからこそ、島に対してもっと恩返しがしたいし、役に立ちたいと思うんです。

ーーそういう思いが、仕事にも影響を与えていそうですね。

そうですね。実際、子どものイヤイヤ期には何度も仕事を辞めようと思ったんです。いまは子どもと向き合うべきだし、あくせくするのが嫌で移住したのにな、って。でも、働く母親でありたいという気持ちが大きくて、どうすれば子育て世代がやりたいことを実現しながら、子どもとも向き合えるか、をずっと考えてきました。

ーーそんな杵築さんだからこそ感じる、海士町らしさってどんなところにありますか?

うちの子どもたちは全く人見知りをしないんです。この間も羽田空港で全然知らない大人にどうやって来たかを話していて(笑)。私はそれがすごく良いことだと思います。いろんな人に対して興味があって、人を信じているというか、それはきっとこの島の方たちにいろんな接し方をしてもらったからこそなんだろうなと。そういう点でも、私はここに来てよかったとすごく思うし、子どもたちが大きくなって、島に戻ってこなかったとしても、東京だけじゃなくて、いろんな可能性があるんだということは伝えていきたいなと思います。

ーーでは最後に、海士町に関心を持ってくださる方に向けて、メッセージをお願いします。

私が東京にいた頃は、まわりの人ばかり羨ましく思えて、自分のことがあまり好きじゃなかったんです。だけど、この島に来て、家族もそうだし、地域の人も、自分自身を受け入れてくれる方々にたくさん出会って、私は私で良いんだと思えるようになりました。だから、海士町を知ってくださった方には、島に住むことがなかったとしても、自分のことを好きで良いんだよ、ということを伝えたい。自分のことを自分で認めてあげてほしいし、自分が自分の一番の味方であってほしい。ぜひ、その思いを忘れないでいただきたいなと思います。

杵築祥子:株式会社海士 地域開発事業部 マネージャー

神奈川県出身。不動産会社勤務を経て、「島食の寺子屋」一期生として、2017年に海士町へ移住。島食の寺子屋を卒業後、株式会社海士の地域開発事業部に所属し、レストラン船渡来流亭や島じゃ常識商店のマネージャーを担いながら、海士町の重要な産業である塩づくりを事業承継し、株式会社海士にて「海士乃塩」の製造に従事する。双子を含む三児の母。

取材 / 執筆:角田貴広
撮影:田野英知

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