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海士町の伝統土産を、文化として受け継いでいく

【連載】「ないものはない」という生き方 vol.03

濱家遼太郎

2026.03.01

Interview

「ないものはない」を掲げた島根の離島・海士町。人口約2000人という小さな島ながら、ここには「ないならつくればいい」という、このキャッチコピーを体現したかのような個性豊かな人々がたくさん暮らしています。この連載では、そんな自分だけの暮らし、あるいは仕事をみずからつくり、暮らしている人々を随時ご紹介。今回登場するのは、栄養学や菓子づくりを学んだのち、海士町の伝統的なお土産である「白浪(しらなみ)」の事業継承に関する求人をきっかけに海士町へ移住した濱家遼太郎さんです。

小学校の卒アルに書いた「ケーキをつくりたい」という夢を追って

ーー現在は和菓子などの製造を担当している濱家さんですが、もともと菓子づくりを仕事にしたかったのでしょうか?

小学校時代の卒業アルバムに、将来の夢として「ケーキをつくりたい」ということを書いていたんです。中学高校では、パティシエになりたいということをより具体的に考えるようになりました。ただ、親からは大学進学を希望され、縁があって山形大学に進学し、栄養士の資格をとりました。そのあと就職先を探しているときに「自衛隊、とくに船の食事が美味い」という話を聞いて興味を持ったので、大学卒業後は海上自衛隊に入隊をしました。

ーー異色の経歴ですね……!

はい。でも、入ってはみたものの適性検査の結果、航空管制員になりまして。もう一度お菓子の道へ戻りたいと思ったので、お金を貯めながら3年半勤めて、辻製菓専門学校(現・辻調理師専門学校)に入学することにしました。

ーーその後、なぜ海士町に来ることに?

お菓子づくりに関わりたいなと思って、いろいろと求人の検索をするなかでヒットしたのが、「白浪」の事業継承を行うことになった隠岐桜風舎だったんです。隠岐も、海士のことも当時は知らなかったのですが、いつか自分でお店をやってみたいと考えていた自分にとって、小さな地域での製造というのは、学べるものが多くありそうだなと思いました。それに、海士(あま)という言葉が、自衛隊時代の階級である「海士(かいし)」とまったく同じで、運命を感じたという事情もありました(笑)。

ーーすごい偶然ですね。はじめて海士町を訪れたのは、いつでしたか?

最終面接で社長と話すことになり、なにもわからないまま行き方だけ調べて、なんとかたどり着いたのが最初です。まず港が栄えているなという印象で、島をぐるっと連れて回ってもらったり、その日に泊まらせていただいた(民宿の)但馬屋さんの女将さんが踊りを見せてくれたりして、島の雰囲気に触れることができました。翌日には(港にあるレストラン)船渡来流亭(セントラル亭)で面接をして、そのまま帰ったんですけど。

人口の少ない地区だからこそ、埋もれることなく馴染むことができた

ーー就職が決まって海士町に移住することになるわけですが、住んでみてどんな印象を持ちましたか?

4月からの就職に向けて、翌年の3月末にふたたび島へ来ました。住むところさえあればなんとでもなる、とは思っていたのですが、実際に来てみるとコンテナみたいなプレハブ住宅に住むことになりまして(笑)。当時Iターンが増えてきて、島としても急いで住むところを増やしていた時期でもあったそうで、いろいろと課題はありましたが、今となってはいい思い出です。同じタイミングで島内外から引っ越してきた方が何人かいて、みんなでよく空を見ながら話をしていたのを覚えています。

ーーいきなりインパクトがあったわけですね。

はい。でも、眺めがすごく良くて。海士町で一番景色のいいエリアだと思っています。それに、ここが海士町のなかで2番目に人の少ない地区ということもあって、いい意味で埋もれて暮らすことができなくて。地区行事にも参加しながら、地域とのつながりも増えて、なんだかんだ気に入って同じ家で4年間暮らしています。

ーー海士町へ移住して4年が経つということですが、普段はどのような過ごし方をしていますか。

移住してはじめの1~2年は、せっかく島に来たんだからと、外でバーベキューをしたり、釣りを教えてもらったりして、アウトドアを楽しみました。地区内に住むIターンが増えたこともあって、はじめて地区として球技大会などにも参加することになって。そこからだんだんと暮らしに馴染んで、最近はもともと趣味だったテニスや運動を続けていたり、地区の友人たちと飲み会をやったりしています。

ーー住んでみて、海士町らしいなと感じる部分はどんなところですか?

同じタイミングでプレハブ住宅に入居した方が、Iターンで海士町へ来た先輩だったので、離島のいろはをたくさん教えてもらえて、はやく馴染めたような気がします。(海士町における懇親会を意味する)直会(なおらい)文化のおかげもあり、酒の席では世代にかかわらず話しやすい雰囲気があって、いろんな方と仲良くなることができます。外から来た移住者に対する警戒感も少ないなと、個人的には感じています。

「白浪」という文化そのものを残していくために

白浪(提供画像)

ーー「白浪」の事業継承に至る経緯や流れについて、教えていただけますか。

「白浪」を生み出した「常盤堂製菓舗」の当時の店主だった山中さんがまもなく引退するということで、文化を残すために「白浪」の事業継承を行うことになりました。会社ではその「白浪」の製造に加えて、別の主要なお土産である「キンニャモニャまんじゅう」や、パンやケーキなどの製造を行っています。僕が島に来た最初の頃は、山中さんが付きっきりで教えてくださって、一緒に製造をしていましたが、すぐに引退されてしまって、その後一緒に働いていた仲間も辞めてしまったり、店舗管理の方に異動されたりして、いまは自分一人ですべての製造を担当しています。

ーー濱家さんの仕事の内訳としては、やはり「白浪」の製造がメインでしょうか?

一日で多くて400本、箱にすると50~100箱くらい製造できるのですが、週末などの繁忙期にあわせてまとめてつくって、それ以外の日には「キンニャモニャまんじゅう」や新しいお土産である「鏡ヶ浦まんじゅう」をつくったり、下準備などをしています。製造に関わることで週のほとんどの時間を費やしていると思います。

ーーそうなると、残った時間でパンをつくったり、新しいお菓子の開発などは、なかなか難しそうですね。

そうなんです。でも、この場所が海士町唯一のパン屋さんでもあるので、パンがなくなってしまうのは困るなと思っていて、時間を見つけてはパンを焼いてみたりもしています。が、一人では限界があるので、会社として文化を残していく仕組みをつくる必要があると思っていて。これまで通りのパンを残すのが正解なのか、海士町でつくられているということを大事にして生産を安定化させるのか、とても悩ましいところですね。もちろん、自分がいる限りはやめるという選択肢はないと思っていますが、納得できる形で体系化する方法を考え続けています。

ーー「白浪」づくりそのものを仕組み化していくのは、簡単ではないようにも思います。

指先の感覚とか、ものづくりの感覚がある方であればすぐにできるかもしれませんが、自分の場合も、納得いくものがつくれるまでは1年くらいはかかりました。おっしゃるとおり、簡単に継承できるものではない、というのがネックだなと感じています。製造に特化した人を必要とする場合は、その人がいなくなってしまうと文化が途絶えてしまうので、新しい方が入ってきても製造を続けられる体制を考える必要がある。「白浪」自体を残すことに加えて、別の形でも「白浪」という文化を残すことができないか、ということも日々考えています。

ーーでは最後に、これから海士町に興味を持ってくださる方に、メッセージをお願いします。

海士町という環境に来るかどうかで悩んでいる方がいたら、まずは飛び込んでみるということが一番大事なのかなと思います。自分も最初から海士町についてはほとんど調べないまま、気がついたらこうして暮らしているわけで(笑)。人間というのは案外適応能力があるので、臆せずにぜひ海士町に来てみてほしいです。

濱家遼太郎:白浪職人

大阪府出身。山形大学で栄養学を学び、海上自衛隊に勤めたのち、辻製菓専門学校(現・辻調理師専門学校)にて菓子づくりを学ぶ。その後、海士町の伝統的なお土産である和菓子「白浪」の事業継承のためのメンバーとして移住。現在は隠岐桜風舎にて「白浪」や「キンニャモニャまんじゅう」などの製造を担当する。

取材 / 執筆:角田貴広
撮影:田野英知

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