※この記事は、株式会社海士が2025年に発行した書籍「自然・人間・営み – 隠岐の島・海士町の豊かさを巡る24のストーリー – 」から抜粋した内容をもとに編集しています。
「国民総幸福」を目指すGNHなる開発哲学について
ブータンは、北は中国、南はインドと国境を接する内陸国です。面積は九州ほど、人口は約70万人という小さな国ですが、豊かな自然のもとで多様な生活が営まれており、各地域に特性があります。20ほどの言語が話されている多言語国家でもあり、言語を巡る状況は非常に複雑です。実質的な国教は仏教(チベット仏教)で、国のシンボルである雷龍は国旗や国章にもあしらわれています。長らく「秘境」や「桃源郷」というイメージの強かったブータンですが、ここ20年ほどは「幸せの国」や「世界一幸福な国」といった枕詞をつけて紹介されることが多い。その理由は、前国王(第4代国王ジグメ・シンゲ・ワンチュク、在位1972~2006年)が1970年代に提唱した、「GNH」(Gross National Happiness、国民総幸福)という開発哲学のインパクトの強さにあると言って間違いないでしょう。
この「国民の豊かさや満足度を第一に考える国家開発を目指す」というGNHの基本理念は、1970年代当時、GNPや農業生産高といった統計の類が一切なかった(つまり、経済成長目標の設定等をやりたくてもできない)ブータンにおける、これからの開発を考えるうえでの逆転の発想から生まれたそうです。
その後、2002年には「GNHの最大化」がブータンの国家開発目標であることが開発計画に明記され、2008年にできたブータン初の成文憲法に「国家はGNHの追求を可能とする諸条件を促進させることに努めなければならない」(第9条第2項)と規定されました。現在も試行錯誤を繰り返しながら、「世界一幸福な国」となることを目指した国作りが行われています。
GNHを構成する4本の柱
ブータン政府は、今から20年ほど前に「GNHの4本の柱」というものを示しました。以下がその4本の柱で、これらが滞りなく達成されればブータンは「世界一幸福な国」になる、という政府の姿勢が端的に表されています。
1)持続可能で公正な社会経済開発(Sustainable and equitable socio-economic development)
2)環境の保全(Environmental conservation)
3)文化の保護と振興(Preservation and promotion of culture)
4)よい統治(Good governance)
1つ目は「持続可能で公正な社会経済開発」で、経済成長もGNHの重要な要素の1つだとしています。「物質的な豊かさではなく、精神的な豊かさを追求する」と紹介されがちなGNHですが、正確には「物質的な豊かさも、精神的な豊かさも追求する」だということがわかります。
2つ目は「環境の保全」で、開発の末にブータンが誇る豊かな環境が破壊されてしまったら元も子もないと、森林被覆率を国土面積の60%以上に保つことを憲法に明記し、また国土の多くを国立公園・自然保護区に指定し環境保全に取り組んでいます。3つ目は「文化の保護と振興」です。同じく、開発の結果ブータンのナショナル・アイデンティティを形成する重要な要素である文化がぞんざいに扱われるようになってしまっては意味がないと、「国語」と定められているゾンカ語(母語話者数は国民の3割程度にすぎません)の振興、公の場での民族衣装の着用義務、「ディグラム・ナムジャ」という礼儀作法の遵守といった政策を意識的に行っています。最後は「よい統治」で、政府が責任のある仕事を行うこともGNHの重要な要素であるとしています。
定期実施されている「幸福度」を測る調査項目
さらに、分析手段としてGNH指標というものも定められています。①精神的幸福、②健康、③時間の使い方、④教育、⑤文化の多様性と活力、⑥よい統治、⑦コミュニティの活力、⑧環境の多様性と活力、⑨生活水準の9分野、33項目(各分野のなかに、それぞれ2~4の項目があります)で構成されているもので、政府はこれをもとにGNH調査を過去4回実施してきました。
GNH調査においては、無作為に選ばれた国民を対象に長時間にわたるヒアリングが行われ「幸福度」の数値が算出されます。男女別、職業別、県別の格差、また経年変化といったものが細かく分析されますが、同時に、調査を通して国民が何に対して困っているのか、不満を持っているのかなどを明らかにし、それを国の政策評価や政策作成に反映させることが目指されています。
手元にある第2回GNH調査の質問項目を見てみると、たしかに、生活満足度調査と言い換えられそうな内容であることがわかります。いくつか例を挙げると、①精神的幸福に関しては「生活レベルにどのくらい満足していますか」「ワークライフバランスにどのくらい満足していますか」「どのくらいの頻度で瞑想をしますか」「過去2週間、どのくらいの頻度で嫉妬という感情を抱きましたか」、②健康に関しては「過去30日間、健康だったのは何日ですか」といった項目があります。
③時間の使い方に関しては、1日の勤務時間と睡眠時間を聞いています。ブータン政府の考えとしては、勤務時間が8時間を超過したら、また睡眠時間が8時間に満たなかったら人は不幸になっていくので、実態を把握し必要に応じて改善策を打ち出そうというわけです。
④教育に関しては「自分は郷土の伝説や民話をどのくらい知っていると思いますか」「自分は伝統的な歌をどのくらい知っていると思いますか」、⑤文化の多様性と活力に関しては「1年のうち社会文化活動(コミュニティのお祭り、近所の法要)に何日間参加しますか」「過去数年間に、ディグラム・ナムジャの風習や遵守に変化が起きていると思いますか」、⑥よい統治に関しては「貧富の差の削減に対する政府のパフォーマンスを評価していますか」「環境保護に対する政府のパフォーマンスを評価していますか」「一番近いヘルスケアセンター(病院)まで歩いてどのくらいかかりますか」「家に電気が来ていますか」「世帯から出るゴミはどのように分別していますか」といった項目があります。
また、⑦コミュニティの活力に関しては「この1年間に何日ボランティアをしましたか」「コミュニティの一員であるという感覚はどのくらいありますか」「近所の人たちをどのくらい信頼していますか」「家族と過ごす時間は十分にありますか」「あなたにとって家族は心の安らぎの源であると感じていますか」、⑧環境の多様性と活力に関しては「過去1年間、野生生物によって作物栽培が抑制されることがありましたか」、⑨生活水準に関しては「携帯電話を持っていますか」「冷蔵庫を持っていますか」「あなたの世帯はどのくらい家畜を持っていますか」といった項目があります。政府の考える豊かさが質問の内容に凝縮されているように思いますが、いかがでしょう。
GNHとは異なる、豊かさの尺度
「微笑みの国」タイの人々が常に微笑んでいるわけではないように、また「自由の国」アメリカの人々が常に自由を享受して生きているわけではないように、「幸せの国」ブータンの人々も、常に幸福感を得てのほほんとしているわけではありません。私の知る多くの人は、悩み、葛藤し、怒り、泣き、祈り、毎日を懸命に生きています。「政府はそう言うけれども、実際の生活は……」と不満を漏らす人だって少なからずいます。今、ブータンではオーストラリア、カタール、アラブ首長国連邦、カナダをはじめとした外国への移住(出稼ぎ)が大きなトレンドになっていますが、これも、ブータン国内で自身が置かれている現状に満足していないからこそ起きている動きだといえるでしょう。
ただし、ブータンの人々と関わるなかで、彼らの心の豊かさを感じることはよくあります。懐の深さ、気風のよさ、思いやりの心、自己犠牲の精神……。うまく言語化できませんが、根底にあるものはゾンカ語で「タ・ダムツィ」(tha dam-tsig、相互関係のなかでの他者への献身・信頼)や「レイ・ジュレイ」(ley gju-drey、因果応報)と表現されるものだと思います。この仏教教義に基づくブータンの人々の価値観は、政府が考えるGNHとはまた別の角度からブータンの豊かさの一端を形成しているといえそうです。